早坂希望
幼少の頃
おとなしく、よく寝る手のかからない子。
赤ちゃんの頃から男の人が苦手。
物心ついてからも人に対して恐怖心があり、人見知りが激しく、いとこともあまりしゃべれなかった。
父母祖父は仕事へ、祖母が面倒をみてくれていた。
父は優しく母は厳しかった。
年少から尾花沢幼稚園へ。
それまで家族以外の人との関わりがほとんどなかったからか、年少の間はよく風邪を引き、タクシーで帰宅。
わがままを言ったり泣くこともなく、本を読んだりテレビを見たりして過ごしていた。
年中半ばから近所のピアノ教室に通いはじめる。
母が連れて行ってくれたコンサートをみて、私もやりたいと言ったらしい。
リズムの積み木で遊ぶのがとても楽しみだった。(同じものを講師になってから購入)
ピアノはなかったので、オルガンで練習。
卵を持つ手の形なんてできないよ、、、と思っていたし、バイエルはよくわからなかった。
特にイ短調の追いかけっこの曲ができなかった。
でもピアノをイヤだと思った記憶はない。
祖母がお寺出身だったことと、家の近所に神社があったため、お墓で遊んだりお参りしたりが日常にあった。
気がつけば神様仏様との距離が近く、悪いことをすれば地獄に行くと思っていた。
<低学年>
1年生の時にピアノの先生が代わる。
私の進みが早かったのか、同じレベルの子たちがいる教室を紹介されたらしい。
新しい先生はソプラノ歌手として活躍していた華のある、でもひょうきんな先生。
ヤマハのシステム講師をしていたこともあるそう。
小学2、3年生の時、後に3人で聴音のレッスンを受ける3人で発表会で連弾をする。
3人おそろいの服を仕立ててもらった。
相変わらずおとなしく、口数が少なかったが、正義感が強く、忘れ物をする子や列を曲がって並ぶ子には厳しかった。
先生が言うこと、大人が言うことは絶対だと思っていた。
<中学年>
たぶんこの頃から同級生の女の子と一つ下の女の子と3人でピアノに通うようになる。
その当たりからソルフェージュやアンサンブルのレッスンを組み込んでいただいていた。
スパルタではなく、楽しく、少しだけ専門的なレッスン。
でも練習をコツコツやる子ではなかった。
特にハノンはしなかった。
確か3年生の頃、ピアノを用意してほしいと先生がわざわざ家まで来て家族に話をしてくれた。
そして電子ピアノを購入。
家に届いた電子ピアノを見て、祖父がおもちゃみたいでダメだと、即アップライトと交換。
学校で歌う歌の伴奏を家で練習して遊ぶようになる。
毎月の歌やクラスの歌が楽しみでしかたなかった。
ちびまるこちゃんの歌を自宅で弾いていたとき、外からピアノに合わせて歌う声が聞こえてきて、すごくうれしくて楽しかった。
ストレスからか、食いしん坊だからか、もともと大きかった体がますます太っていった時期でもある。
幼稚園の頃から私の容姿と自分の子供の容姿を比べるお母さんがいて、親戚からも外見のことを言われることがあり、コンプレックスが強くなっていった。
おとなしいままではいけないと、明るくしてみたりおもしろいことをしてみたり、変わろうとして無理をしはじめた時期。
<高学年>
はじめて担任が男の先生になる。
20代の熱血な先生。ギターが好きで、クラスの歌を先生のギターで歌ったりしていた。
ただ、今なら問題になるような体罰が当たり前な頃で、怒鳴ったり殴ったりは怖かった。
愛のある先生だったから、怖いけど好きだった。
私が音楽が得意だとみんなが文集に書いてくれてたけど、特に代表で伴奏をしたような記憶はない。
歌が上手な学年だと言われていたので、たくさんたくさん歌った記憶はある。
「君をのせて」は今でも友人とハモって歌える。
<中学生>
市立尾花沢中学校へ入学。
迷わず吹奏楽部に入る。
楽器の選考でフルートから落ち、ユーフォニアムへ。
大きな楽器ではじめは嫌だったけど、やわらかい音色と裏メロのパートがあって、楽しかった。
この時の部活の先輩が数名、教室の保護者になっている。
部活の上下関係が厳しく、怖い先輩が多くて、毎日毎日家に帰っては悩んでいた。
音楽を存分にできる部活は楽しかったし、大人数での合奏、先輩の演奏の迫力も憧れていた。
ピアノは合唱の伴奏を任されるようになる。
レッスンはのんびり。
1曲に何ヶ月もかけていた。
ピアノの先生のすすめもあり、高校は音楽科に行くんだろうな~とぼんやり考え始める。
でもまだツェルニーやインヴェンションも本格的には始めていなかった。
勉強はそこそこ。
休みの日も一日部活だったので、部活中心の生活だった。
3年の春、やっと音楽科受験を決め、志望校で講師をしている先生のところへ通うようになる。
グランドピアノが2台並んでいることに驚く。受験曲の悲愴の3楽章は、はじめての大曲。ちんぷんかんぷんで良さがわからなかったけど、友人が踊りをつけてくれたりして、少しづつ曲をものにしていった。
小1から習っているの先生にはソルフェージュを習いに引き続き通う。
朝授業の前に、音楽の先生もソルフェのレッスンをしてくれた。推薦は落ち、その後一般入試で合格。
<高校>
山形北高等学校音楽科へ入学。
周りのレベルの高さに落ち込む。
特にテクニックのなさ、基礎の薄さに愕然とする。
毎学期、中間テストと期末テストのタイミングでピアノと歌の試験があるので、必死に練習。
「毎日学年プラス1時間練習しなさい」と言われていた。
1年次だけ高校の近くに下宿。
親元を離れる寂しさよりも、とにかく周りについていく、自分の基礎をたたき直すことに精一杯。
1年の最初のピアノ試験で暗譜が飛ぶ大失敗をし、それから3年間、その失敗を超えられず、本番になると失敗するを繰り返す。
大学入試でやっとなんとか超えられた。
ピアノソロは恐怖でしかなく、試験の前はピアノ線が切れないかといつも祈っていた。
歌うことと、伴奏することは好き。
伴奏も緊張で震えるけど、責任からか大きな失敗はなかった気がする。
ピアノよりも歌の点数が良かったため、担任から歌への転科をすすめられる。
どんなことも歯を食いしばって涙を見せずにがんばる子だったが、赤ちゃんの頃いらい、母親の前で大泣きする。
ピアノの先生は穏やかな方で、いつも見守ってくれていた。
自分の実力のなさと、幼い頃からのレッスンを振り返った時に、ピアノの先生になりたいと強く思うようになる。
どの子にも間違いのない力をつけてあげたいという気持ちが芽生える。
音楽科に入りその道を志すならば、音大へ行く道しかないと思っていた。
その先はぼんやりしていたけど、ピアノの先生に焦点を合わせていくようになる。
カラオケ、プリクラ、コンビニやファーストフードでの買い食いが当たり前の同級生が多かった中、脇目もふらず練習練習の3年間。
私にお金がかかっていること、これからもかかることがわかっていたので、お金を使うことへの罪悪感もすごくあった。
人生で3本の指の入る辛い時期。
この3年間があったからこそ今の私があると思えるけれど、二度と戻りたくないくらいしんどかった。
先生が武蔵野だったこともあり、何も考えずに武蔵野を志望。
夏期講習に行って違和感を感じる。
昭和音大にはピアノ指導者コースがあり、指導法や教材研究の授業があるのも魅力的で、音楽療法や児童心理も学べると知って気持ちが傾いていく。
パンフレットのピアノ科教授のページにいらっしゃった先生の文章にひかれ、昭和に通っている高校の先輩にお電話したところ、先輩の先生がパンフレットの先生だった。
すぐに話を通してくれて、あっという間にレッスンに伺う段取りが整った。
運命だと思った。
昭和に志望校を変え、武蔵野用に取り組んでいた課題曲も全て変え、3ヶ月後には推薦入試。
受験番号が1159(いい合格)。
きっと受かると思えた。
そして合格。
<大学>
昭和音楽大学ピアノ指導者コースに入学。
高校があまりにもキツかったので、大学は楽に感じた。
最初の2年間は4人部屋の寮生活。
どちらかというと、寮生活が大変で、相変わらずの人見知りから、日本全国から集まった人と仲良くなるまでには時間がかかった。
憧れの先生に習えることになり幸せだった。
オーラがビシバシある先生で、1年間はレッスン前にトイレにかけこむほど緊張していた。手が小さいので「ブラームス、ラフマニノフ、リストは弾いてはダメ」と言われた。
ショックはなく、たんたんと受け入れた。
「ジャズ研」というサークルに寮仲間の4人で入り、夜中にスタジオを借りてバンドの練習をしたりセッションをしたりする仲間に入った。
とはいえ、誰も即興ができないので、ただただ練習についていって話を聞くのが刺激的で楽しかった。
文化祭では、野外のステージでモー娘。のラブマシーンを踊ったり、コーラスに入ったりさせてもらった。
最高の時間だった。
3年になり一人暮らしを始める。
育英会の奨学金をいただき、それ以外は全部自分で賄うのが一人暮らしの条件。練習できるギリギリまで弾いたらラーメン屋さんにバイトに通った。
この年、試験の課題曲の中に「水の戯れ」があり、先生にはやめておけと何度も止められたが、どうしてもやりたいんだと懇願してやらせてもらうことになった。
弾きたい曲だったし、イメージが沸いていたので、それに近づけるために丁寧丁寧に練習した。
この時の試験が4年間の中で一番手応えがあった。
やっぱり伴奏が好きで、歌の伴奏や器楽の伴奏は積極的に引き受けた。
ピアノ以外の先生のレッスンに伺うのがとても楽しく、いつも勉強になった。
大学の4年間はピアノ以外の世界に触れられた時間。いろんな人がいて、考え方があって、やり方があって、その中で音楽ができたのはとても幸せだった。
社会人 独身
大学卒業後、実家に帰る選択も就職する選択も出来なかった。
高校入試から考えると、8年間「試験」に向かって練習してきた。
試験から解放されて糸が切れたようにピアノを弾かなくなった。
少し休みたかったし、遊びたかった。
昭和音大付属音楽教室の事務のバイトをはじめ、音楽教室の裏方を2年経験させていただく。
日々生徒さんに接する先生方を見て、やはり私もそちら側にいきたいと思うようになる。
都会の生活にも疲れ、一度山形に帰ってもいいかもしれないと思い、24歳の時に山形へ戻る。
運良く楽器店で産休代行の先生を探しており、季節外れの12月から現在までお世話になっている。
楽器店で教え始めた次の年に、地元で教えてほしいという方がいて、それをきっかけに自宅の教室を始める。
ヤマハよりも回数を多く年間42回、周りの先生よりもお月謝は安く5千円からスタート。
同じ頃から9年間、小学校にリコーダーと鍵盤ハーモニカの導入講習に行くお仕事もさせていただく。
はじめて会う子どもたちの心のつかみ方、飽きさせずにテンポ良く授業を進めるやり方は、ここで鍛えられた。
自分のピアノにコンプレックスがあったので、演奏の仕事をすることなど考えてもいなかったが、合唱団をはじめ、声楽や器楽の伴奏など、たくさんのステージ経験をふませていただく。
いただいた仕事は断らない、という精神でやっていたら、数ヶ月休みがないこともしばしば。
ボランティアのような仕事も多かった。
20代半ばから時々体調を崩すようになる。
医者に行っても、原因がわからない、ストレスですね、と言われるばかり。それでもだましだまし忙しい日々を送っていた。
自分の体調を改善させたい、パワフルにレッスンしたい、祖父の健康を維持したい、などの理由から健康オタクになっていく。
「望診」という東洋医学の手法に出会い、これまでの不調の原因が腑に落ちたことから、本格的に体の勉強をはじめる。
結婚
40歳で結婚。
二人姉妹の長女で、本来なら家を継ぐ予定だったが、相手が一人っ子でお父さんが亡くなっていたため、嫁にいくことを決める。
結婚と同時に同居。
コロナがきっかけにもなり、少しずつ仕事を整理し始める。
演奏の仕事と合唱団をお断りし、楽器店も週3から週1へ。
合唱団をやっていた時間に新しい生徒さんを迎え、自宅教室は週3のまま続ける。
その後夫と二人暮らし。
が、その間新しい家が建ったことと、夫の病気をきっかけに今年から二世帯同居を始める。
<自慢の生徒さん>
①幼稚園から習い始め、いつもニコニコ天真爛漫な子。小2の時にお母様のお仕事でシンガポールへ。シンガポールでもピアノを続け、小5で帰国してからレッスン再開。吹奏楽部、合唱伴奏、生徒会活動も積極的に取り組む。現在高校2年生で、夏からハンガリーに留学中。現地でYouTubeチャンネルを開設し、留学中のアレコレを発信。夢に向かって前向きに行動するところ、やりたいことを実現していく力がずば抜けている生徒さん。現地のハーフのお子さんにピアノを教えてほしいと言われ、プチピアノの先生をしているそう。
②2歳9ヶ月から通ってくれた生徒さん。はじめはお母様に連れられてイヤイヤだったけど、お母の協力のおかげもあり、コツコツ練習できる子に。コンクールにも積極的に参加。最後に出たコンクールでは「見事でした」と講評をいただく。伴奏となると緊張するようで、中3の合唱コンクール伴奏の時は「恐い」とポロポロと涙を流す。はじめて見る涙。生徒会長でもあり、勉強も常にトップ、そんなことからも相当なプレッシャーを感じながら練習に取り組んだ数週間。本番当日、恐怖心に打ち勝ち、ひとつのミスもなく本番を終えたそう。
③独特な世界観を持つ生徒さん。小さい頃から自分の世界を持ち、ピアノの表現もストレートでいつも全力。部活動の上級生を送る会では、他の子がグループで出し物をする中、たった一人で「歌います」とその場に立ち歌ったそう。自分の気持ちに純粋で、嘘をつかず、真正面からぶつかっていく素敵な子。
④発表会での演奏を聴いて憧れる子や保護者の方が続出。歌心があり、聴いてる人を引き込む演奏をする。どうやったら素敵に弾けるかを自分で考えて「こうしてみたい」「これはどうですか」と提案してくれる。遠方の高校に通いながらピアノも続け、高校で生徒会長も務める。
⑤小さい頃から挨拶や礼儀を欠かさないしっかりした子。でも実は面白さが滲み出ている。高い視点から俯瞰して物事を見ることができるので、いつも落ち着いていて飄々としている。発表会のやり方や私が迷っていることにアドバイスを求めると、的確な意見をくれる。高校受験の時もレッスンは続け、ショパン、ドビュッシー、シューベルトと名曲にも続々とチャレンジ。私が想定している時間よりも早く、サラリと弾いてきてしまう。